コラム

2023/04/06 コラム

取調受忍義務肯定説という妄想

取調受忍義務というものがある。あるようである。身体拘束されている被疑者は捜査機関から取り調べられる義務があるというのである。
その根拠は、刑事訴訟法198条1項但書の反対解釈という。刑事訴訟法198条1項但書は、「但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。」と定める。逮捕勾留されていない場合は出頭拒否や退去が可能と言うのだから、逮捕勾留されている場合は出頭拒否も退去もできないのだ、だから取り調べられなければいけないのだ、と言うのである。このように考えることが文言上自然とまで言われる、実質的理由としては、捜査機関の手元で取り調べたいというのがあるのだろう。
しかし、取調受忍義務肯定説は誤りである。以下に説明しよう。

第1に、肯定説の根拠とする、198条1項但書反対解釈であるが、私は耳を疑う。反対解釈というのは、AならばBという命題があるとき、AでないならBでないという命題が成り立つという解釈である。肯定説は、これが文言上自然であるという。しかし、読者は既に気が付いているであろうが、これは裏を真と言っているのである。ある命題が真のとき、同時に真となるのは対偶のみである。念のため説明しておくと、AならばBという命題を考えたとき、その逆はBならばA、その裏はAでないならばBでない、その対偶はBでないならばAでないとなる。これは高校1年生で学ぶ事柄である。つまり、肯定説は、高校1年生で学ぶことを間違えて主張しているのである。私なら、恥ずかしくて表を歩けない。
ところで、法律学では反対解釈をしばしば見る。私も、反対解釈が常に間違っていると言っているのではない。反対解釈は文言上論理必然ではないと言っているに過ぎない。例えば、刑法においては、反対解釈は前提とされる。しかしそれは、罪刑法定主義、すなわち法律なければ犯罪なし、犯罪なければ刑罰なしという、よって立つべき価値基準があるからである。私語禁止の場所があるとしよう。これを反対解釈して、会話ではないから、カラオケはよいだろうと言って、大声で歌い出すことが認められるはずがない。反対解釈が論理必然でないことは、これだけでもわかるはずだ。

第2に、刑事訴訟法223条の存在である。同条1項は「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者以外の者の出頭を求め、これを取り調べ、又はこれに鑑定、通訳若しくは翻訳を嘱託することができる。」と定める。参考人取調べについての規定である。そして同条2項は「第198条第1項但書及び第3項乃至第5項の規定は、前項の場合にこれを準用する。」と定める。刑事訴訟法198条1項但書が取調受忍義務を肯定しているとすると、たまたま逮捕勾留されている参考人は、他人の刑事事件について事情聴取を受ける義務を負うということになる。しかし、何故他人の刑事事件について事情聴取を受ける義務を課せられなければいけないのか、全く意味不明である。このことからも、刑事訴訟法198条1項但書は取調受忍義務を認めていないと考えるほかない。

第3に、刑事訴訟法197条但書の存在である。同条は「捜査については、その目的を達するため必要な取調をすることができる。但し、強制の処分は、この法律に特別の定のある場合でなければ、これをすることができない。」と定める。任意処分の原則、強制処分法定主義について規定するものである。取調受忍義務を肯定するとき、取調べを受けることを受忍しろと言うのであるから、取調べは強制処分ということになる。そうでないと、取調受忍義務を認める意味がないからである。しかし他方、そうすると「この法律に特別の定」とは、但書の反対解釈だということになるが、逮捕や捜索差押えといた他の強制処分と比較し、如何にも不自然な規定ぶりである。

第4に、履行確保手段の不存在である。例えば、刑事訴訟法288条1項は「被告人は、裁判長の許可がなければ、退廷することができない。」と定め被告人に在廷義務を課し、同条2項は「裁判長は、被告人を在廷させるため・・・・・・相当な処分をすることができる。」と定め在廷義務履行確保手段を想定している。取調受忍義務を肯定しているとするなら、法がその履行確保手段を定めていないのは不自然である。

第5に、身体拘束の目的に沿わないということである。逮捕の目的は、刑事訴訟規則143条の3が「逮捕状の請求を受けた裁判官は、逮捕の理由があると認める場合においても、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない。」と定めているとおり、逃亡阻止と罪証隠滅防止である。勾留の目的は、刑事訴訟法60条1項2号3号が勾留の理由として「被告人が罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき。」「被告人が逃亡し又は逃亡すると疑うに足りる相当な理由があるとき。」と定めているとおり、やはり逃亡阻止と罪証隠滅防止である(なお、被疑者勾留について刑事訴訟法207条1項本文により準用)。取調べは身体拘束の目的ではない。警察自身、公安委員会作成の犯罪捜査規範136条の3で「捜査員は、自らが犯罪の捜査に従事している場合における当該犯罪について留置されている被留置者に係る留置業務に従事してはならない。」と定め、捜査と留置を分離しているのである。にもかかわらず、逮捕勾留を契機として取調受忍義務が生じるというのは理由がない。そもそも、取調べの必要性という意味では、身体拘束の有無は関係がないのであって、にもかかわらず逮捕勾留されている場合にのみ取調受忍義務が生じるというのは理由がないのである。

以上の通り、取調受忍義務を肯定することこそ、文言上不自然であり、法解釈として無理があるのである。刑事訴訟法198条1項但書は、文言上論理的には、逮捕勾留されている場合については何も言っておらず、解釈に委ねているというほかないのである。そして、憲法38条1項が黙秘権を保障している以上、取調受忍義務を肯定することは背理である。黙秘権を行使している被疑者をなお取り調べること自体、人権侵害と言うべきであるし、無意味であるからである。
ところで、取調受忍義務と出頭滞留義務を区別し、前者は認められないが後者は認められるとし、被疑者は取調室に居続けなければならないとする見解もある。しかし、取調べを受ける義務はないのに取調室に出頭し滞留し続けなければならないというのは無意味であって、言葉遊びでしかない。この見解は理由がない。

浅学の私ですら、以上は理解できるというのに、警察官はもちろんのこと、検察官や裁判官、弁護士の一部にすら、取調受忍義務が、条文の文言上は導かれると解釈する者がいる。俄には信じがたいが、ただ、誤解を招く書きぶりではあろうから、立法で解決するのが望ましいのであろう。

以上

© 私はあなたのみかたです – 弁護人橋本太地