コラム

2023/10/12 コラム

なぜ責任能力がないと無罪になるのか

神戸市北区の住宅地で2017年、祖父母と近隣住民の計3人を殺害し、母親ら2人に重傷を負わせたとして殺人などの罪に問われた男性被告(32)について、一審に続いて無罪とした大阪高裁判決が確定した。大阪高検が上告しなかったからである。

神戸5人殺傷、男性被告の無罪確定 検察が期限までに上告せず

判決は、被告が犯行当時、妄想の影響下で心神喪失状態だった疑いが残ると認定、一審・神戸地裁の裁判員裁判の無罪判決を妥当だとし、無期懲役を求刑していた検察側の控訴を棄却したという。

この判決に対し、X(旧Twitter)では批判の声が多い。5人を殺傷しておきながら無罪はおかしい、心神喪失でも罪は罪だ、処罰されるべきだ、被害者(遺族)が納得できない、と言う。
刑法39条1項は、「心神喪失者の行為は、罰しない。」と定める。この「罰しない」とは、責任がないという意味である。よって、心神喪失者の行為には犯罪が成立せず、無罪となる。これが前提となる法律の定めである。
では、なぜ心神喪失者の行為には、犯罪が成立しないのか。以下に説明しよう。なお、あくまでも私見であり、説明のためにやや不正確な表現もあえて使用していることを断っておきたい。

犯罪とは、構成要件に該当し違法かつ有責な行為とされている。構成要件とは条文に書かれていること、くらいの意味に思ってくれればよい。違法とは、やってはいけないことというくらいの意味である。
そして有責とは、構成要件に該当し違法な行為であることを知りながら、あるいは知ることができたのに注意を怠って、当該行為に出たことを言う。行為者について、責められる状態にあること、くらいの意味である。
もう少し説明すると、適法な行為を選択することもできたのにもかかわらず、あえて違法な行為を選択した、あるいは、注意を怠って違法な行為を選択してしまったことに、行為者に対する責任が求められるのである。ここには、前提として人は自由であるという発想が見て取れる。人は基本的に自由であり、外部からの影響を受けながらも、最終的には自分の意思で判断し、行動を選んでいる。よって、人は適法な行為も選択できるし、違法な行為も選択できる。にもかかわらず、あえて違法な行為を選択した点を、法は非難するのである。
では、心神喪失者の場合、すなわち責任無能力者の場合はどうであろうか。心神喪失とは、精神の障害により事物の理非善悪を弁別する能力またはその弁別に従って行動する能力のない状態をいうとされている(大判昭6・12・3刑集一〇–六八二)。物事の善し悪しを判断する能力がなかったり、その判断に従って行動する能力がなかったりする場合である。そうすると、適法な行為を選択して行動することができないことになる。法は、そのような彼彼女を非難できない。よって、犯罪が成立しないのである。
この場合、心神喪失者を動かしているのは、実は彼彼女自身の意思でなく、その背後に存在する病気なのである。それが、裁判所の言う、「被告が犯行当時、妄想の影響下で心神喪失状態だった」という説明の意味である。医師が、何も知らない看護師に毒入りの注射器を渡し、患者に打たせたとしよう。この場合、実際に患者に注射をした看護師を非難する者はいないだろう。誰もが、背後の医師のしわざと言い、医師を非難するはずだ。心神喪失者の場合も同様に考えられる。背後に存在する病気のしわざなのである。

以上に対しては、行為者が罪を犯したことに変わりはないではないか、との批判が考えられる。しかし、それは結果責任である。罪とは、行為者を非難できることを前提としている。そうでないと、避けることのできなかった事故のような無過失の場合にも犯罪を成立させることにもなりかねない。
また、被害者(遺族)が納得しないとの批判もあろう。しかし、犯罪の成立と被害者(遺族)の納得は関係がない。冷酷と言われようがそうとしか言いようがない。被害者(遺族)の救済は政府の役割である。犯罪の成立しないところに犯罪を成立させ、刑罰を科したとしても、被害者(遺族)が救われるというわけでもない。

なお、無罪と言っても、釈放されるというわけではなく、治療のために入院させられるのが通常である。この点はあまり報道されていないようなので、注意されたい。

© 私はあなたのみかたです – 弁護人橋本太地