2023/03/14 コラム
証拠に直接触れることの意味
刑事訴訟の当事者は、言うまでもなく被告人と検察官である。検察官が訴追し、被告人は防御する。
検察官は、起訴した事実を、証拠によって明らかにしようとする。検察官が請求した証拠は、被告人に開示される。刑事訴訟法299条本文は、「検察官、被告人又は弁護人が証人、鑑定人、通訳人又は翻訳人の尋問を請求するについては、あらかじめ、相手方に対し、その氏名及び住居を知る機会を与えなければならない。証拠書類又は証拠物の取調を請求するについては、あらかじめ、相手方にこれを閲覧する機会を与えなければならない。」と定める。証拠書類については、検察庁に謄写の請求をするのが通常である。検察庁にデジカメを持参して写真を撮る方法によって謄写することもある。
さて、検察官請求証拠について、弁護人は身体を拘束されている被告人にコピーを差し入れるべきかということが議論されることがある。私自身は、差し入れるのが当然であると考えているが、この際、整理しておきたい。
消極説(差し入れないのが原則)をみると、次のようである。すなわち、
被告人に検察官請求証拠のコピーを差し入れることは避けるべきだと考えてる。なぜなら、外部流失の危険があるからである。これは在宅でも身体拘束事件でも変わらない。必ずしも証拠に対する被告人の意見を聴かなければ、弁護人が証拠意見を述べられないとは考えていない。 やむを得ず記録のコピーを差しれる場合は後に回収をしておくほうがよい。
また、弁護士倫理の研修で、刑訴40条では弁護人には謄写権が認められているが、同49条では被告人には認められていないことから、 被告人には謄写権がないというような説明されているとのことである。
しかし、私は賛成できない。私は積極説(差し入れるのが原則説)であるので、以下に説明する。
まず、法40条本文は「弁護人は、公訴の提起後は、裁判所において、訴訟に関する書類及び証拠物を閲覧し、且つ謄写することができる。」と定め、裁判所において取り調べられた証拠や訴訟に関する書類についての定めで、法49条は「被告人に弁護人がないときは、公判調書は、裁判所の規則の定めるところにより、被告人も、これを閲覧することができる。被告人は、読むことができないとき、又は目の見えないときは、公判調書の朗読を求めることができる。」と定め、公判調書についての定めであって、検察官請求証拠の場合に直接あてはまる議論ではないと思われる。
次に、法326条は「検察官及び被告人が証拠とすることに同意した書面又は供述は、その書面が作成され又は供述のされたときの情況を考慮し相当と認めるときに限り、第321条乃至前条の規定にかかわらず、これを証拠とすることができる。」と定めており、証拠の同意権があるのは被告人であって、弁護人にはない。同意権がある被告人自身が、検察官請求証拠を直接閲覧し読んで同意するか否かを判断できないというのは、如何にもおかしな話である(もちろん、弁護人には被告人の包括的代理権があるので、包括的代理権に基づいて証拠意見を述べることを否定する意味ではない。)。 なお、前述の法49条は「被告人に弁護人がないときは」と定め、弁護人がいない被告人の場合を想定しているところ、弁護人がいない場合は、検察官請求証拠は被告人に開示するほかないのであって、被告人にコピーを差し入れるか否かという問題はそもそも生じない。弁護人がいる事件の被告人は証拠に直接触れることができず、弁護人がいない事件の被告人は証拠に直接触れることができるというのでは、弁護人がいることにより逆に防御に支障が生じることになりはしないか。
懸念されている流出の問題については、目的外使用について定めた法281条の5において犯罪化され刑罰が課されることが予定されている。刑罰の威嚇により証拠の流出を抑止するというのが法の立場であって、弁護人が被告人に差し入れないことにより証拠の流出を抑止するというのは法の立場ではない。
私は、訴訟の当事者である被告人が、証拠に直接触れることができないという結論には賛成できない。取調べ立会いの議論で、民事訴訟で依頼人を相手方代理人のもとへ行かせて陳述書を作成される弁護士はいないと指摘されることがあるが、民事訴訟で、依頼人に証拠を直接触れることを許さない弁護士がいるだろうか。 もちろん、関係者のプライバシー等の弊害を考慮し、被告人が閲覧することを制限すべき情報はあり得るとは思うが、その場合であってもマスキング等により対応すべきである。
ところで、去る2023年3月13日、袴田事件の再審開始決定が、東京高裁において出された。再審請求事件において、今まで検察官が開示してこなかった証拠が開示され、それが決め手となることが多い。検察官は、証拠は検察官のものと思っているのか、証拠の全てを開示しようとはしない。被告人に有利な証拠を手の内に隠し、死刑を求刑することもある。目の前の被告人が無実かもしれないとわかっていながら、その被告人に、あなた死になさいと言って平気なのだ。検察官というのは人の心を捨てなければできない職業としか思えない。
私が現在担当している事件で、公判前整理手続に付すよう請求したところ、検察官から、「公判前整理手続に付した場合、被害者のプライバシー等本件と無関係の情報を得るために証拠漁りともとれる証拠開示請求がなされるおそれが十分ある」との反対意見が出された。公判前整理手続とは証拠と主張を整理するための法定された手続であり、裁判所も関与する。その手続において、「証拠漁り」と評されるような行為を弁護人ができるわけがないし、法律に基づいてなす証拠開示請求を、検察官が何故おそれるのか、全く理解できない。
「証拠漁り」という言葉を私は聞いたことがあるのだが、時機良く(?)、袴田事件再審開始決定について報じるNHKのニュースに記載があった。以下に引用する。
【証拠は何のためにあるか】
80年代。免田事件・財田川事件・松山事件といった死刑の再審事件が相次いだ時期に、最高検察庁が内部で報告書(「再審無罪事件検討結果報告」)をまとめていました。
この資料、今も一般には公表されていません。
報告書の中には、証拠の開示に関してこういう言葉が記されています。
「慎重に対処すべき問題」「必要最小限度の範囲内のものに限るべき」。さらには請求人が有利な証拠を探そうとすることを「証拠漁り」と表現し、「証拠漁りを許すようなことがあってはならない」とも記しています。
あくまで40年近く前の報告書ではありますが、当時の検察の、証拠に対する意識の一端がうかがえます。
検察からすれば、決まりがない以上、慎重に対応し開示しないのも自由だという考えなのかもしれません。
しかし、証拠とは何のためにあるのでしょう。
証拠はあくまで、真実を解明するためにあるはずです。捜査機関は保管しているという役割で、自分たちのものではありません。
そのことは忘れないでほしいと思います。
(引用ここまで)
死刑再審が相次いだ後に、最高検察庁は、証拠開示をより消極的にしようとしていたのである。つまり、検察官は、被告人に有利な証拠を被告人に見せずに被告人に対してあなた死になさいと言うことを是としているのである。この考え方は今でも受け継がれているように思われる。