2023/03/04 コラム
阿武町の誤振込み事件についての私見
第1 はじめに
去る2023年2月28日、世間の注目を集めた阿武町の誤振込事件の判決があった。判決は懲役3年執行猶予5年であった。
ワイドショーでは、専ら量刑ばかりが注目されていた。しかし、本件は電子計算機使用詐欺の成否が争われていたのであり、法解釈こそが争点である。そこで、本件について私見を述べておきたい。なお、電子計算機とはコンピュータのことである。また、勘違いされがちだが、本件の被害者は阿武町ではなく被告人が口座を有していた銀行である。
第2 前提
本件判決の検討に入る前に、本件判決が前提としている、平成8年判決と平成15年判決について触れておく。
1 振込みとは
まず、振込みとは法律上どのように整理されるかについて述べておく。振込みとは、一般に。①銀行(仕向銀行)が振込依頼人から資金を受け 取り、②その依頼に基づき受取人の取引銀行(被仕向銀行)に受取人の預金口座に資金を入金するように依頼し、③被仕向銀行がこれを受けて受取人の口座に入金することを言う。振込依頼人と受取人との間の二者間取引ではないということに注意を要する。
2 平成8年判例
最高裁平成8年4月26日判決最高裁判所民事判例集50巻5号1267頁である。事案の詳細は省略する。本件と同じく、振込依頼人が誤って送金先を間違えた事案である。結論として、受取人と被仕向銀行との間に預金債権の成立を認めた。以下に引用する。
また、振込依頼人と受取人との間に振込みの原因となる法律関係が存在しないにかかわらず、振込みによって受取人が振込金額相当の預金債権を取得したときは、振込依頼人は、受取人に対し、右同額の不当利得返還請求権を有することがあるにとどまり、右預金債権の譲渡を妨げる権利を取得するわけではないから、受取人の債権者がした右預金債権に対する強制執行の不許を求めることはできないというべきである。
(引用ここまで)
理由は、①普通預金規定に振込依頼人と受取人と間の法律関係に関する定めが置かれていないこと、②銀行取引の円滑確保である。振込依頼人の利益は、受取人に対する不当利得返還請求(民法703条)によるべきとした。受取人が被仕向銀行に対し有する預金債権の譲渡を妨げる権利を取得するわけではないとしていることも注目に値する。
この判決は当時の民法学説における多数説や下級審裁判例に反するものであった。
3 平成15年判例
最高裁平成15年3月12日決定最高裁判所刑事判例集57巻3号322頁である。事案は省略する。本件と同じく、振込依頼人が誤って送金先を間違えた事案である。誤振込みの受取人が被仕向銀行の窓口行員に対し誤振込みであることを秘し払戻しを請求しよって払戻しを受けたところ、詐欺罪に問われたというものである。平成8年判例に従えば、受取人と被仕向銀行との間には有効に預金債権が成立している。そうであれば、受取人が払戻請求をすることは自身の権利を行使したに過ぎず、詐欺罪は成立しないのではないかが争点とされた。なお、この場合の詐欺罪の被害者は被仕向銀行であることに注意を要する。
結論として、詐欺罪の成立を認めた。以下に引用する。
しかし他方、記録によれば、銀行実務では、振込先の口座を誤って振込依頼をした振込依頼人からの申出があれば、受取人の預金口座への入金処理が完了している場合であっても、受取人の承諾を得て振込依頼前の状態に戻す、組戻しという手続が執られている。また、受取人から誤った振込みがある旨の指摘があった場合にも、自行の入金処理に誤りがなかったかどうかを確認する一方、振込依頼先の銀行及び同銀行を通じて振込依頼人に対し、当該振込みの過誤の有無に関する照会を行うなどの措置が講じられている。
これらの措置は、普通預金規定、振込規定等の趣旨に沿った取扱いであり、安全な振込送金制度を維持するために有益なものである上、銀行が振込依頼人と受取人との紛争に巻き込まれないためにも必要なものということができる。また、振込依頼人、受取人等関係者間での無用な紛争の発生を防止するという観点から、社会的にも有意義なものである。したがって、銀行にとって、払戻請求を受けた預金が誤った振込みによるものか否かは、直ちにその支払に応ずるか否かを決する上で重要な事柄であるといわなければならない。これを受取人の立場から見れば、受取人においても、銀行との間で普通預金取引契約に基づき継続的な預金取引を行っている者として、自己の口座に誤った振込みがあることを知った場合には、銀行に上記の措置を講じさせるため、誤った振込みがあった旨を銀行に告知すべき信義則上の義務があると解される。社会生活上の条理からしても、誤った振込みについては、受取人において、これを振込依頼人等に返還しなければならず、誤った振込金額相当分を最終的に自己のものとすべき実質的な権利はないのであるから、上記の告知義務があることは当然というべきである。そうすると、誤った振込みがあることを知った受取人が、その情を秘して預金の払戻しを請求することは、詐偽罪の欺罔行為に当たり、また、誤った振込みの有無に関する錯誤は同罪の錯誤に当たるというべきであるから、錯誤に陥った銀行窓口係員から受取人が預金の払戻しを受けた場合には、詐欺罪が成立する。
要は、普通組戻しするんだから、受取人は組戻しのために被仕向銀行に対し誤振込みがあったことを教えてあげるべきで、教えてあげずに黙ったまま預金の払戻しを請求することが騙す行為にあたるから、受取人の行為は詐欺罪にあたるということである。誤振込であることを教えてあげることを告知義務という。この義務の根拠は信義則や条理であるという。条理とは常識のようなものである。
私見は平成15年判例に反対である。判例は受取人に被仕向銀行に対する告知義務があるというが、そもそも告知義務があると言えるか疑問である。「安全な振込送金制度を維持するために有益なものである」とか、「振込依頼人と受取人との紛争に巻き込まれないためにも必要」とかいう銀行にとっての事情について、受取人が配慮するいわれはないと思われる。告知義務の根拠として信義則や条理を持ち出すというのも、如何にも安定性を欠く。これらは私的紛争において妥当な結論を導くための最終手段とも言うべきものであって、刑法解釈における義務の根拠として用いられるべきではないと考える。そもそも、告知義務を課す目的である組戻しは、判例自身が述べている通り、「受取人の承諾を得て」なされるのである。つまり、受取人が組戻しに承諾しなければ、被仕向銀行は、受取人からの払戻請求に応じなければならない。そのような脆弱な手続に配慮する義務の違反を根拠に詐欺罪が成立するというのは無理があると考える。
第3 本判決の検討
ともあれ、現在、平成15年判決は変更されていない。そこで、とりあえずはこれを前提として話を進める。
本件の特徴として、①被告人である受取人が誤振込みの事実を知る前に、既に被仕向銀行が誤振込みの事実を知っていたこと、②窓口行員に対し払戻請求をしたのでなく、インターネットバンキングによる取引がなされたことが挙げられる。①について、誤振込みについて知っている者に誤振込みを告知する義務というのは意味不明である、②について、インターネットバンキングによる取引において誰にどうやって告知するのか、といった批判が可能である。
1 ①告知義務について
本件判決は、①について、告知義務を認めた。以下に引用する。
平成15年判例は、誤って受取人口座に金銭が振り込まれた場合、これを知った被仕向銀行が、自行の口座入金手続に過誤がないかを調査し、さらに、仕向銀行及び仕向銀行を通じて振込依頼人に照会するなどした上、振込依頼人に過誤があり組戻しを求められれば、受取人の承諾を得た上で組戻しの手続を採るというのが銀行実務(以下、「調査等手続Jという。)であることを前提として.、誤って受取人口座に金銭が振り込まれた場合に、関係者間での無用な紛争の発生を防いだり、あるいは、被仕向銀行が振込依頼人と受取人との間の紛争等に巻き込まれ.ないようにすることで振込送金制度の円滑な運用を維持するために、被仕向銀行に詞査等手続を採る利益を認めるとともに、その利益を実質的なものとするために、受取人口建に誤った振込みがあったことを受取人が知った場合には、信義則に基づき受取人に被仕向銀行に対する告知義務を課することを内容としているものである。
このような平成15年判例の趣旨に照らすと、仮に、既に被仕向銀行が受取人口座に誤った振込みがあったことを知っているという事情があったとしても、被仕向銀行としては、関係者間での無用な紛争の発生を防いだり、あるいは、被仕向銀行が振込依頼人と受取人との間の紛争等に巻き込まれないようするために、誤って受取人口座に振り込まれた金銭についてどのように処理をするのが相当かを早期に検討する必要があるといえる。そして、その検討のためには 、受取人口座に誤って振り込まれた金銭について、その原因行為の有無等につき受取人がどのように認識しているのかをなるべく早期に被仕向銀行が知る必要がある。そうすると、被仕向銀行が受取人口座に誤った振込みがあることを既に知っていたとしてもなお、受取人には被仕向銀行に対する告知義務があるというべきである。
(引用ここまで)
「関係者間での無用な紛争の発生を防いだり、あるいは、被仕向銀行が振込依頼人と受取人との間の紛争等に巻き込まれないようするために、誤って受取人口座に振り込まれた金銭についてどのように処理をするのが相当かを早期に検討する必要がある」から、誤振込みであることを被仕向銀行が知っていたとしても、なお受取人は被仕向銀行に対する告知義務があるのだという。何でそこまでしてやらないとあかんのや、と思ってしまうのだが。ここでは、告知する対象が、誤振込みであったことから「受取人口座に誤って振り込まれた金銭について、その原因行為の有無等につき受取人がどのように認識しているのか」にすり替わっているように思われるが、これは平成15年判例の趣旨に照らして正しいのだろうか。
2 ②インターネットバンキングによる取引という特殊性について
これについて、本件判決は、「平成15年判例の趣旨に照らすと、受取人口座に誤った振込みがあったことを受取人が知った以上、受取人に告知義務が認められると考えるべきであり、このことは被仕向銀行の窓ロで取引する場合であろうと、イシターネットを通じて電子計算機に情報を入力して取引する場合であろうと変わりはない。」と述べるに留まり、このように考えるべきという理由については何ら述べられていない。「それってあなたの感想ですよね」と言うべきである。イシターネットを通じて電子計算機に情報を入力して取引する場合に、いったい誰に、どうやって告知するのか、裁判所には教えていただきたい。
3 権利行使ができるか
本件判決は、告知義務に反している受取人が預金債権を行使できるかについて、以下の通り述べる。
平成15年判初が、誤って受取人口座に金銭が振り込まれた場合に、’ これを知った被仕向銀行に調査等手続を採る利益を認めていることを考えると、告知義務に違反している受取人が:被仕向銀行が調査等手続を完了するまでの間に、誤って受取人口座に振り込まれた金銭分の預金について権利行使をすることを許せば、被仕向銀行に調査等手続を採る利益を認め、そのために受取人に告知義務を認めながら、一方で、その告知義務に違反する受取人が被仕向銀行の調査等手続を採る利益を侵害する行為を許すことになり、前記のとおりの平成15年判例の趣旨を没却することになる。そうすると、平成15年判例が信義則に基づいて受取人に告知義務を認めたのと同様、告知義務に違反している受取人が、誤って受取人口座に振り込まれた金銭分の預金について権利行使をすることは信義則に基づき許されないというべきである。
(引用ここまで)
長ったらしい文章で読みにくいが、要は、預金債権を行使できるとしたら平成15年判例の意味がなくなるから行使できないことにしましたと言うのである。これでは、詐欺罪の保護法益は平成15年判例ということになってしまう。確認するが、組戻しには受取人の同意が必要であり、受取人の同意がなければ、被仕向銀行は払戻請求に応じなければならないはずである。ここでも、権利行使できない根拠は信義則である。私法の一般原則を根拠に犯罪が根拠付けられるというのでは、債務不履行を犯罪とするのと大差ないことになりはしないか。
4 虚偽の情報を与えた?
電子計算機使用詐欺(刑法246条の2)は「虚偽の情報を与えた」ことが要件とされている。しかし、本件の被告人はインターネットバンキングによる取引において被告人口座情報等を入力しており、自分の情報を自分の意思で性格に入力しただけであって、虚偽の情報は入力していない。しかし、本件判決は、次の様に述べて、「虚偽の情報を与えた」の要件を認めた。
本件送金行為等の際、被告人がインターネットに接続した携帯電話機に、本件送金行為等に関する情報を入力している(以下、「本件各入力行為」という。) ことは明らかである。そして、本件各入力行為によって入力された情報は、被告人が直接入力した被告人口座の情報等だけでなく、その前提として、本件送金行為等が正当な権利行使であるという情報も含まれているものと解される。そうすると本件送金行為等が正当な権利行使でないにもかかわらず、本件送金行為等が正当な権利行使であるという情報を銀行の電子計算機に与えているのであるから、本件各入力行為は、電子計算機使用詐欺罪の「虚偽の情報を与えた」に該当する。
(引用ここまで)
言うまでもないことだが、インターネットバンキングによる取引では、その入力項目に、「本件送金行為等が正当な権利行使である」というチェック項目は、ない。少なくとも私は見たことがない。本件判決を下した裁判官には幻覚が見えているのかもしれない。条文は「虚偽の情報」としているのであって、権利行使が正当か否かを問題とはしていない。
第3 まとめ
以上の通り、私見では、本件判決について多くの疑問があり、反対である。法を枉げてまで無理に犯罪を成立させる必要はない。平成8年判例が言うように、振込依頼者から受取人への不当利得返還請求によって解決すべきである。
念のため言っておくが、私も、本件被告人の行為が適法とか正しいとか言うものではない。電子計算機使用詐欺に問うのは無理があると行っているだけである。世の中には、非難されるべき行為は無数にある。しかし、それら全てが犯罪とされ処罰されるわけではなく、実際にはごく一部である。ある行為について処罰すべきという当罰性の議論と、ある行為について処罰することができるかという可罰性の議論を混同してはならない。可罰性の議論は往々にしておざなりにされがちであるが、意識的に立ち止まって考えなければならない。そうでないと、処罰の範囲が広がりすぎてしまう。信義則や条理といった一般原則で犯罪を基礎付けてしまうことは、法律なければ犯罪なしという罪刑法定主義(憲法31条)に反すると言うべきである。
本件について、弁護人は即日控訴したという。高裁、最高裁の判断が注目される。