2022/11/20 コラム
黙秘は卑怯か
去る2022年11月18日、京田辺市立田辺中学校で、弁護士の仕事について話をする機会を頂いた。生徒の皆さんは静かに、真剣に聞いてくださった。そこでは、黙秘が功を奏して不起訴になった事件について紹介した。この際に、自身の理解を整理するためにも、黙秘権についてまとめておきたい。
黙秘と言えば、最近、天満カラオケパブ殺人事件が話題となった。公判で起訴事実を黙秘する被告人に批判が集まった。テレビでは、弁護士のコメンテーターまでも非難していたが、刑事訴訟法311条1項が「被告人は、終始沈黙し、又は個々の質問に対し、供述を拒むことができる。」と定め、被告人に黙秘権を保障していることを指摘すべきであった(なお、同法291条4項は、「裁判長は、起訴状の朗読が終つた後、被告人に対し、終始沈黙し、又は個々の質問に対し陳述を拒むことができる旨・・・・・・を告げた上、被告人及び弁護人に対し、被告事件について陳述する機会を与えなければならない。」と規定している。)。被告人が公判で黙秘することは、法的な権利なのである。もちろん、これは被告人の言動が道徳的に非難されることとは別である。
ところで、2022年10月31日、産経新聞が以下のコラムを掲載した。文責は大阪社会部長・牧野克也である。
「凶悪犯弁護の戦術 真実よりも黙秘ありきの独善」
それによると、
〝合理的な疑問を残さない程度まで犯罪事実を立証する責任は検察官にある。では弁護士の職責とは何か。〟
と問題提起した上で、
〝平成16年に成立した犯罪被害者等基本法は被害者の権利利益保護を打ち出している。弁護士の使命は基本的人権の擁護と社会正義の実現(弁護士法1条)である。その人権擁護から被害者を除外していいのか。真実を封じ、犯罪者の更生にも役立たない黙秘に社会正義はあるのか。
「どんな凶悪犯の人権も唯一の味方として守る」という弁護士の職責は、被害者配慮とせめぎ合う宿命を背負う。が、そこで思考停止すべきでない。刑事司法は今や被害者のためにもあるものだ。真実よりも黙秘ありきの弁護戦術には、国家権力と闘う思想を優先した独善が透けて見える。〟
と締める。
要は、被害者のため、真実発見のため、黙秘権行使を批判し、黙秘権行使を勧める弁護士を批判したいのだ。
この産経新聞の論調は、検察官のそれと同じである。法務省の法務・検察行政刷新会議 第7回会議(令和2年11月12日)に提出された篠塚力委員(弁護士)提出の補助資料によると、殺人被疑の事案で、検察官が、黙秘権を行使する被疑者に対して、「人一人殺 して何を開き直っているのか」「黙秘しますで通ると思っているのか」「反省し ている奴は黙秘なんてしないんだ」「黙秘する権利なんかない」「逃げんじゃね え」「黙秘することは卑怯だ」「人一人殺しておいて何が黙秘だ」「人殺しなん だから反省しろ」「黙秘なんて言葉に逃げるんじゃない」「黙秘は反省していた らできない」などと暴言を吐いたという事案が紹介されている。この事案については、弁護人が検察官に抗議文を送ったのに対し、検察庁から、取調べ録音録画を確 認したところ、上記発言があったことを認めた上で「たしかに行きすぎた言動が ありました。」という旨の回答があったという。注目すべきは、警察官ではなく検察官が、しかも、録音録画もなされている状況でした発言だということである。
しかし、黙秘は卑怯なのだろうか。
「3日前の晩御飯、何食べた?」あなたは答えられるだろうか。中学生に聞いたところ、答えられなかった。私はこのコラムを書いている現在、36歳だが、昨日の晩御飯ですら覚束ない。況んや、数ヶ月、数年前の事件について質問されることもあり得る取調べにおいて、私たちは正確に答えられるだろうか。いや、答えられない。答えられないのであれば、答える義務はない。黙秘権は、この当たり前を認めたものである。
私はこうも質問する。「脚を骨折しているときに全力疾走できるか?」できないに決まっている。できないことはやらないと言っているだけなのである。
こうして見ると、黙秘が卑怯ではないということが、よくわかるだろう。
黙秘はリスク管理の上でも有効である。一度口から出た言葉は取り返せない。メールやLINEのように書き直すことはできない。その口から出た言葉が、もし客観的に正しい事実と異なっていたらどうなるか。捜査機関は、あなたを嘘吐きだと思うだろう。そうなると、あなたの他の言葉も信用されなくなる。何も言わなければ、少なくとも嘘吐きとは思われない。嵐も「嘘を言うくらいなら 黙ってたほうがマシさ」と唄っているではないか(アルバム「One」13トラック目収録「Yes?No?」より)。
取調べは情報戦である。自分の手札を公開してカードゲームをするプレイヤーはいない。黙秘とは、自分の手札を相手に見せないという、当たり前のことなのだ。
なお、言うまでもなく、被疑者被告人には無罪が推定される。有罪であることの立証責任は検察官にある。被疑者被告人に、如何なる意味においても供述義務は存しないのである。黙秘権は訴訟制度の論理的帰結でもある。
それでもなお、正直に話すべきだとの声が聞こえてくる。気持ちはわかる。それは美徳だ。しかし、自分を犯罪者であると証明するための証拠を得ようと躍起になっている捜査機関を目の前にして、美徳などと言ってはいられない。正直に話したところで、捜査機関がそれを素直に受け入れてくれるとは限らない。「国民の知る権利に奉仕する」が口癖のマスコミですら人の言葉を切り取り歪曲して面白おかしく報じる。況んや、証拠の隠蔽や捏造もやってのける捜査機関である。
黙秘は、法的に認められた権利である。感情的にはともかく、黙秘を法的に非難することがあってはならない。
そして、産経新聞が決定的に誤っているのは、裁判で真実が明らかになると思っている点である。真実を明らかにするのは、ジャーナリズムの役目である。
私は、依頼者に黙秘させることはしない。依頼者が黙秘するのを支えるだけである。防御の主体は依頼者なのだから。
私は、国家権力と闘う独善のために黙秘を勧めたことはないし、これからも勧めない。依頼者を護るために、黙秘を勧めるのである。
以上
」